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今から2千年以上も昔の話、場所は中国、国の名は燕(えん)、君主の名は昭王。
当時のこの地は戦国時代。いわゆる群雄割拠、その様なご時世で燕はそんなに大きな国ではなかった。隣国の斉は孫臏(そんぴん:孫子の兵法でおなじみ)が軍事力を増強させて大国に・・・。
昭王の父は国政を子之(しし)にゆだねてしまったため、国は大いに乱れ大混乱。昭王が子之の悪政を打倒すべく軍を興すにも後ろに父が控えていては、母国に弓する反逆者になりかねない。そこで、隣国の力を借りようとして・・・。
一方隣国の斉の君主宣王(せんおう)は当時、この国に滞在していた孟子に伺いを立ててみた。孟子は儒学者。孔子に次いで有名な学者で、当時の国の在り方や君主とは、民とは、等々、今でいう政治や道徳・倫理・哲学に詳しいオーソリティー。
孟子は攻めても良いと言う。群雄が割拠しているこの時期のこの大陸では、評判が大事。如何な大国の王とはいえ、正義が無ければ軍事もママならぬ社会。
かりに武力にモノを言わせて他国を蹂躙できたとしても、世論が認めなければ繁栄はおろか存命も危ぶまれるほどに社会は文化を育んできていたのです。
宣王は大国斉の王として名を欲していたし、天下国家をその手に掴みたかった。善政を敷いて慕われたいとも思っていたのかもしれない。しかし大国の驕りもそこには本人も気付かぬうちに内在されて・・・。
つまり宣王は軍を出し、一応の混乱を納めたモノの新たな難問を生んでしまったのです。ツマリ、武官がその地、民を慰撫するという統治能力が無かったがため新たな混乱が・・・。
斉軍は暴発して燕の領地を蹂躙し始めたのです。その失敗に気付いた宣王は孟子に恥じつつもどうにも致し方無い時に、他方の大国趙(ちょう)の武霊王が介入してきて・・・。
我が国の一部を燕に提供するので、この混乱を治めるために斉軍をそこへ留めては如何かと・・・。ついでに空席になった燕の君主の座に推薦した皇族を潜り込ませようとして・・・。
この大国二国斉と趙は結局、燕の君主を殺害してしまうは、昭王を無視するは、・・・で政治・統治の上でも我名声を上げたいという思惑のみが先走った形で残ってしまい・・・。
すんでの処で、昭王が燕の君主に君臨することに・・・。昭王は聞く耳と訪ねる口は持ってはいたし、その心の内は屹立した海底と言うよりも砂地の様な性格だったのでしょう。
しかし父を殺された恨みは慙愧の念と一緒にこの事件でしこりとして残ってしまったのです。小国ユエの哀しい結末。国はグチャグチャにされて父を失い・・・。復讐の念に火を灯してしまうという苦い経験。
当時、客分として燕に滞在していた郭隗(かくかい)。飛び抜けた頭脳や思慮を持った偉人ではなかったのですが、全く人の機微を知らぬという人間でもなかった。昭王はその客分に問うた。
今は小さな国の力のない儂だが、何時しか我希望を叶えたい。隣国斉へのリベンジを果たしたい。如何にかならぬかと・・・。
郭隗は応えた。世界の偉人を招聘して国を富ませ、力を付けるしか方法は無いと・・・。そこで、先ずは、「隗より始めよ」と・・・。
昭王は一瞬、ムッとしたがその理由を伺っていくと・・・。コンナ能力しかない私を厚遇して礼を尽くす昭王なら・・・と知った賢者なら何をしても燕に集まってくるハズだと・・・。
果たして黄金台が設けられ、この隗の下に楽毅が現れて昭王の念願は叶うのです。
当時の帝王学には、帝者・王者・覇者というヒエラルキーがあって、「帝者は師と共にあり、王者は友と共にあり、覇者は臣と共にあり」というお話しがあったという事です。
当時のこの地は戦国時代。いわゆる群雄割拠、その様なご時世で燕はそんなに大きな国ではなかった。隣国の斉は孫臏(そんぴん:孫子の兵法でおなじみ)が軍事力を増強させて大国に・・・。
昭王の父は国政を子之(しし)にゆだねてしまったため、国は大いに乱れ大混乱。昭王が子之の悪政を打倒すべく軍を興すにも後ろに父が控えていては、母国に弓する反逆者になりかねない。そこで、隣国の力を借りようとして・・・。
一方隣国の斉の君主宣王(せんおう)は当時、この国に滞在していた孟子に伺いを立ててみた。孟子は儒学者。孔子に次いで有名な学者で、当時の国の在り方や君主とは、民とは、等々、今でいう政治や道徳・倫理・哲学に詳しいオーソリティー。
孟子は攻めても良いと言う。群雄が割拠しているこの時期のこの大陸では、評判が大事。如何な大国の王とはいえ、正義が無ければ軍事もママならぬ社会。
かりに武力にモノを言わせて他国を蹂躙できたとしても、世論が認めなければ繁栄はおろか存命も危ぶまれるほどに社会は文化を育んできていたのです。
宣王は大国斉の王として名を欲していたし、天下国家をその手に掴みたかった。善政を敷いて慕われたいとも思っていたのかもしれない。しかし大国の驕りもそこには本人も気付かぬうちに内在されて・・・。
つまり宣王は軍を出し、一応の混乱を納めたモノの新たな難問を生んでしまったのです。ツマリ、武官がその地、民を慰撫するという統治能力が無かったがため新たな混乱が・・・。
斉軍は暴発して燕の領地を蹂躙し始めたのです。その失敗に気付いた宣王は孟子に恥じつつもどうにも致し方無い時に、他方の大国趙(ちょう)の武霊王が介入してきて・・・。
我が国の一部を燕に提供するので、この混乱を治めるために斉軍をそこへ留めては如何かと・・・。ついでに空席になった燕の君主の座に推薦した皇族を潜り込ませようとして・・・。
この大国二国斉と趙は結局、燕の君主を殺害してしまうは、昭王を無視するは、・・・で政治・統治の上でも我名声を上げたいという思惑のみが先走った形で残ってしまい・・・。
すんでの処で、昭王が燕の君主に君臨することに・・・。昭王は聞く耳と訪ねる口は持ってはいたし、その心の内は屹立した海底と言うよりも砂地の様な性格だったのでしょう。
しかし父を殺された恨みは慙愧の念と一緒にこの事件でしこりとして残ってしまったのです。小国ユエの哀しい結末。国はグチャグチャにされて父を失い・・・。復讐の念に火を灯してしまうという苦い経験。
当時、客分として燕に滞在していた郭隗(かくかい)。飛び抜けた頭脳や思慮を持った偉人ではなかったのですが、全く人の機微を知らぬという人間でもなかった。昭王はその客分に問うた。
今は小さな国の力のない儂だが、何時しか我希望を叶えたい。隣国斉へのリベンジを果たしたい。如何にかならぬかと・・・。
郭隗は応えた。世界の偉人を招聘して国を富ませ、力を付けるしか方法は無いと・・・。そこで、先ずは、「隗より始めよ」と・・・。
昭王は一瞬、ムッとしたがその理由を伺っていくと・・・。コンナ能力しかない私を厚遇して礼を尽くす昭王なら・・・と知った賢者なら何をしても燕に集まってくるハズだと・・・。
果たして黄金台が設けられ、この隗の下に楽毅が現れて昭王の念願は叶うのです。
当時の帝王学には、帝者・王者・覇者というヒエラルキーがあって、「帝者は師と共にあり、王者は友と共にあり、覇者は臣と共にあり」というお話しがあったという事です。
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